実家の母、亡き父

私の母は、薬否定者だ。


障害者を産んだ覚えはないと常々言う。


それは、私が手帳や年金を貰っているからという理由もある。


発症した時も自立支援や、手帳、年金の話もあったらしいが、全部拒否をした。


後々、記録が残ると働けないと思ったからだ。


親心なのはわかる。しかし、私は恥ずかしい家族と思われていることに腹立たしさを感じていた。


父は俺はいつでも死にたい時に死ねるんだ!が口癖になっていた。多分出戻りになりつつある娘に失望していたのだろう。


ある日、父は朝、調子が悪いと言っていた。しかし、母は休むことを許さなかった。どうせ二日酔いでしょ、程度に。


しかし夕方電話があった。母は

「母さん出かけてくるから、父さん倒れて意識ないって」

私は記憶を失った。お父さん、私のせい?


葬儀には旦那はもちろん、じいばあちゃん、友達や、元職場の方々が来てくれた。


弟が、旦那と色々打ち合わせて喪主は母だったがスムーズに進んだ。


私はバリバリ働いていたのに、薬の影響かおっとり系になっていた。現実と夢の境目が分からず涙も出なかった。


貧乏時代、銭湯に父と毎日バケツを持って行ったり、運動会は何故か二日酔いで1度も来てくれなかったり、私が大学行く時引っ越しを手伝ってくれたのに、腰も下ろさず帰っちゃったり、

家を建てる時自分で設計し、私に相談してくれたのに私冷たく好きにしたらと言っちゃったり

結婚前、北海道1周旅行に連れて行って?(私がほとんど運転)くれたり。最後には大学出じゃない旦那との結婚に反対する母に反し、○○君の手は働き者の手だ!と褒めてくれたり。良く解らない人だった。


しかし、実は若い頃父はDVを繰り返していた。


母は酔っ払って帰ってきた父から私たち子供を守るため、いつも押し入れに入れた。

隙間から殴られている母を観ながら涙がこぼれた。


父は大手企業のリーダー的立場にいて器以上の仕事を任され、ストレスでいっぱいだったのだと思う。


だから、母も黙って我慢していたのだと思う。

子供を守って、犠牲になって。


父が飲むと二重人格になることを誰も信じなかったと母は言っていた。


好きなことしてポックリ亡くなったのだから、幸せだったと思う。


母にとって私は病人ではないらしいが、夏になると航空券を4人分送ってくれる。そして、温泉宿をとってくれる。


時には憎たらしい母ではあるが、亡くなった父から幼い頃必死でアザを作りながら守ってくれたことは忘れない。


ありがとう、お母さん。


お父さんは、孫1人抱けなかったけどお母さんは7人のばあちゃんになっちゃったんだね。


出戻りの弟の世話でボケ防止、がんばってね!